#1 小売店勤務・38歳

みんなが「俺たちの祭りが」って言ってるのもお祭りのいいところで、外に向けてのことを考える役割はたくさんはいらない、でも1人くらいはいてもいいでしょって、僕はちょっと冷静に見てるんです。

 

コロナ禍のちょっと前くらいに、音楽レーベルやってる先輩から「ウチからリリースしたレコードあげるよ」っていただいて、それで初めてレコードを手にして聴いたんです。それまでは「アナログなんて劣化するから意味ないじゃん」って思ってたけど、弟のレコードプレーヤーを借りて聴いてみたら「音が柔らかくてすごくいい、しなやかな感じがする!」って驚きました。

それで、自分でもレコードをしっかり集めてみようと思ったんですけど、興味が広すぎるしお金もかかるから「どっから買う?それじゃちょっと絞ってみよう」と。それでまず買ったのが和物だったんです。山下達郎とか細野晴臣とか70−80年代のポップス、いわゆる今になっていえばシティポップっていわれてるあたりですね。

 

そういうのを集めてこうって思った時に知ったのがクニモンドさんだったんです。流線形というバンドを2000年代前半くらいからやってた、クニモンド瀧口さんって音楽プロデューサーがいるんですけど。

シティポップが再評価される前からそういう音楽を作ってきた人で、「なるほど、一周まわって今の感覚でこういうポップスをやってる人がいるんだ、だからこのジャンルはアリなんだな」って思えました。

(店内BGMで富田ラボ「眠りの森 feat.ハナレグミ」がかかる)あ、富田ラボ。この方もまさしく80年代のポップスの感じで今曲を作ってるプロデューサーの人ですね。そしていろいろあってクニモンドさんにいま自分たちのバンドの音源が渡っているという・・・恐ろしい話です。

中高校生の頃は全く違う音楽を聞いてたんです。いわゆるパンクとか。Green Day とかThe Offspringが有名ですけど、Blink-182とかSum41とかGood CharlotteとかNew Found Gloryとかもリアルタイム。ちょっとスポーティでスケーターたちが聞くような。パンクにハマる前の僕らが小学生の時、ラルクアンシエルとかGLAYとかのビジュアル系がオーバーグラウンドで一番売れてました。ビジュアル系の人たちがポップなわかりやすいほうに向かい始めてた時期が小学校高学年から中学1年くらい。で、中1の時にX-Japanのhideが自殺したんですけど、それで「ああやべぇなんかギター始めよう」って。hideがすごい好きだったから、やらねばマズイ気がするって思って。

それで1年生の12月にギター買ってもらってラルクとかマネしながら弾いてくわけなんですけど。中2の時にハイスタが最後のアルバムを出して、それがすごくいいと言われているから買ってみたら、そこから一気に日本で言うメロコアってものにハマってったんですね。

僕が好きな音楽はアメリカのものが多くて。アメリカをずっと追ってきたんですよ。すぐそこにある『イースターバニー』って英語教室の社長のミツコさんは高校時代の塾の先生でもあるんですけど僕の姉貴的な存在でもあって、音楽やアメリカ文化についても話せた。音楽は文化を知らないとわからないから色々聞いてましたね。

母がオールディーズ好きでチャック・ベリーとか車で聴いてたから知らず知らずに英語やアメリカ音楽には触れてたとは思うし、そう考えると色々繋がっていくというか。

そうそうそれで、ここら辺だと売ってるCDが限られてるから、東京のHMVとか行って輸入盤を買ったりするわけです。でもアメリカ行ったらもっとたくさん買えるんじゃないかって思ったんですね。
そしたら高校1年生の夏休みにミツコさんがホームステイに誘ってくれて。ALTとして富士に来ていたジムって先生がいたんですけど、うちの親父やミツコ先生の旦那さんとも繋がっていた関係で、ジムが富士の後に引っ越したサンディエゴの家に2週間ほどホームステイに行ったんです。僕はCDをお小遣いで買って帰りたいというのが目的で。滞在中はLAに行った時の自由時間にタワレコでCD買いまくったり、ベニスビーチで朝ご飯にでてきたカリッカリのベーコン見て「コレが映画でよく見るあれか!」「これがザ・アメリカか!」って思った記憶があります。

当時から音楽ただ聴いてるだけじゃなくて「このバンドはどのバンドと仲が良い」とか「このバンドはどこの出身だ」とか知りたがりだったから、サンディエゴで「Blink-182の地元なんだよなー、こういう場所で育ったのかな」とか思いながら歩いてました。

 

当時はハイスタとかも英語で歌ってたし、むしろ日本語で歌うのがダサいみたいな風潮もあってメロコアを聞いてたので、「なおさらアメリカじゃなきゃ!」って盲目的に思ってたんですよね。アメリカへの憧れみたいな感じです。もちろんOasisとかPrimal Screamとかブリティッシュの音楽もあったけど、僕の周りでは聞いてる人がいなかったんです。当時はRadioheadとかもノータッチで。ひたすらアメリカのロック・パンクを漁ってました。

最近僕が聴いているものでいうとニューオリンズ系の音楽とか、ファンクとかもアメリカじゃないですか。やっぱり母の影響もあるのかも。子供心にお母さんに褒められたい気持ちじゃないですけど。僕は中学くらいまでは母が買ってきた服を黙って着ていたんですけど、高校になって自分で服とか買うようになってからも、買ってきた服を母が「可愛いじゃない」って言うのを「この感じでいいんだな」みたいな(笑)選球眼がそっちに寄ってしまうというか。今考えると、音楽にもそういうところがありますね。

 

僕はお祭りの広報的な役割をしています。お祭りの組織は1年のうち、1月から6月までしか存在してなくて、しかも当番制だから毎年担当者が変わってしまいます。そこで僕たちは通年で広報チームを組んでパンフレットやポスターを作っています。

こっちにUターンしてきた2013年にパンフレット制作のチームに入った時、外に発信するためのものだけどどうしても身内の視点になってしまうというか、自分から出てくるアイデアも「それって本当に外に対してのものなのか?」って思うことがありました。商店街の組合では広報もやってたし、いったん街や祭りを俯瞰して、吉原祇園祭のどこが特色でどこが魅力で、どういうお祭りで他と何が違うのかを外に紹介する前提で考えることが必要ってことに気づいたんです。

お祭りをやっていると、自分達のことだからこそ、そこがわからない。逆にみんなが「外に向けた視点」って考えてたらつまらないので。「俺たちの祭りが」って言ってるのがお祭りのいいところで、外に向けてのことを考える役割はたくさんはいらない、でも1人くらいはいてもいいでしょって、僕はちょっと冷静に見てるんです。

 

バンドの成り立ちもそういう視点は関係してるかもしれません。「祭りを知らない人に向けて」みたいな意識はあったと思います。

最初にこのバンドをやったのは商店街で行われたイベントの時。同年代の若者たちが運営するイベントで、「自分ができることをやる」というスタンスで動いていました。自分だったら何ができるかなって考えたときに、単にお祭りの太鼓やってもなんか合わないな〜って。地域のイベントだとよく賑やかしで太鼓をやることもあるんですけど、このイベントには若い人っちが集まってたし、イベントの実行委員会にはこだわりが強い人も多かったので(笑)そこに響くにはどうしたらいいかなと、アイデアをあたためていました。ちょうど実行委員会のメンバーにお祭りをやってるサックス奏者の子がいたので「ファンクとお祭りの太鼓を一緒にして、そこでサックス吹いてみない?」って聞いたんですよね。断られたらやめようと思ったけどOKしてくれて。実行委員会にはお祭りに参加してる幼馴染がいたのも大きかった。もちろんそいつも誘って。それが始まりです。

でもライブをやるには持ち曲も少ないので宮太鼓も一緒にやったんですね。宮太鼓ってフリースタイルセッションみたいなものだから、知人の宮太鼓叩ける人を片っ端から声かけまくって来てもらって。この時もMCでは外の人向けの喋り口で紹介したんですよ。「小さい頃から太鼓を教わって、多くのひとが太鼓を叩ける街です。その人たちに実際に叩いてもらいましょう」と。実際に当日はめっちゃいろんな人が代わる代わる太鼓叩いてくれた。「なんだこの街?」ってのを見せたかったから狙い通りにはなってたかな。あれから来年で10年を迎えます。

このモチベーションってやっぱり、承認欲求ですかね。シャッター商店街とかよく言われるけど「見るとこ見たら面白いとこあるよ」ってのを出したいんです。シャッター閉まってる店があるのは事実しょうがないんだけど、面白くて変な人はいるし、老舗も残ってたりするし、もちろんお祭りもアツいし。そういうのを全部無かったことにしてシャッターって言われるのは許せないから。周りに営業をかけてるっていうか、「この人はどの切り口だったら吉原を認めるだろうか?」って常に考えてます。

 

写真:佐竹佑梨 @yuri17.sat / 取材&文:YCCC


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